【古雅楽館】 私的 暮らしと明かり Ⅰ

 

 

昔の出来事をよく話すようになるのは「年をとった証拠」だが、古雅楽館幼少期の「明かり」については幾多の鮮明な思い出が甦(よみがえ)ってくる。今回は半ば昭和の暮らしを紹介する意味も込めて、あの頃の生活に関わる「明かり」の記憶を書き留めておきたい。

 

チビスケの古雅楽館には全く縁のなかった『朝鮮動乱』が終わる頃ド田舎で暮らす夜は街灯なんか全く無く、「月明かり」か「星明り」が頼りで、曇りや雨の日は文字通り「漆黒(しっこくの闇」。田んぼの遥か彼方を汽笛(きてきを鳴らしながら時折走る「夜汽車」の明かりが、一層闇夜を際立たせる。住んでいた家は今の若い人には想像もつかないような、戦前からの古ぼけた木造「長屋」だから、離れてポツンと建っている「便所」へ行くのがとても嫌だった。15W位の裸電球がぼんやりと点いているのがとても怖くて「小」の方は親に縁側(えんがわの雨戸を少しずらしてもらい、そこから「立ション」。「大」の方はと言うと・・・。

 

 

 

【写真上左】次回紹介しますが、リビングの明かりを全部点けるのは、ちびっ子達が来た時の夕食時だけで、普段は目的に応じて使い分ける。夕食後、音楽を聴くときは更に照明を落として、フロアスタンドだけにすることが多い。【写真上右】フロアスタンドの出自(しゅつじ)は『バイタライト』といい、特殊電球(現在では蛍光管)による限りなく『自然光』に近い光なので、デザインスタジオや印刷・医療・食品関係等、プロの現場で多用されている(古雅楽館のタマは白熱球)。本体はクラシカルなアイアン製品で、最近の雑誌によく取り上げられる『インダストリアル系』ズバリそのもの。マニアにはたまらないだろうが、その名が流行するーっと以前、都内の古道具屋で見つけたもの。二束三文(にそくさんもん)で引き取ったが、例によって発送代金の方が高かったりして・・・。

 

風呂も同じく別棟の共同浴場と言えば聞こえがいいが、小屋の中に薪でお湯を沸かす風呂釜と洗い場があり、一家族が交代で入る。こちらに電灯はついていない。お湯のかからない柱の高所にぶら下がった、工事現場用の小さな「乾電池式、手提げ懐中電灯」がひとつ。いつ消えるかもしれない小さな光が益々不安を募(つのらせて、風呂場で遊ぶどころの話ではなかった。風呂はいつも母親と一緒だったが、それでも真の闇は怖い。だから、晴天や月夜の晩は本当に安心して風呂に入れた。格子窓から見えるこぼれるような満天の星、差し込む青白い月の光。この記憶はそれからずーっと心の奥底にこびりついていて、今でも休日の夕方、東の空に浮かぶ月を見ると幼き日を思い出す。

 

 

【写真】↑の写真の続き、リビング正面の全景。【古雅楽館】《ブックシェルフ放浪記<想定外篇Ⅱ>》掲載写真、夜の姿。本当はもっと明るいものの、昼と夜とで部屋の表情は一変するのが「照明術」の醍醐味(だいごみ)である。

 

当時、庶民の家はどこでも『白熱灯』が一般的だったが、父方の「お爺さん」の家は玄関から上がってすぐの居間に『囲炉裏(いろり』を切っていたから、電傘もぶら下がっていたけど、寧(むし)ろ『囲炉裏(いろり)』の薪や炭火が燃える明かりの方が、強く記憶に残っている。小学生になって間もなく、田舎住まいから大都会石巻市のアパートへ引っ越した時、初めて我が家に『蛍光灯』が燈(ともった時のしさ(まぶしさ)は、嬉しさと共に「やっと世間並みの家に住めるようになった」と子供心に感激したものである。「高度成長期」いわゆる『神武(じんむ景気』の始まりで、生活水準は年を追う毎に目に見えて向上し、『三種の神器』としてもてはやされた家電製品も遅ればせながら我が家にやって来た、エポックメーキングな時代であった。ただ小学生の身でさえ古雅楽館の「へそ曲がり」は健在で、真空管ラジオもキャビネットが古臭い木製のヤツから、見た目も「ケバい」プラスチック製の新型にオヤジが買い替えた時は、「歌声がキーキーして嫌だ」と一丁前に抗議して、「嫌なら聴くな!」と怒鳴られたものだった。 

 

 

【写真】古雅楽館にはキャビネットがプラスチック製の真空管ラジオも何台かあり、しばらく通電していないが、ほとんどが受信可能(ちゃんと鳴る)。オヤジが買ったのはこれ等のデザインとは異なり、横に細長い『ナショナル(松下電器)』製ではなかったかと思う。本文に書いた音質の問題はボリュームを上げると本体が共振し、すべてのプラスティックラジオ共通の悩みだった。

 

明かりについても同じ。最初のうちこそ蛍光灯の明るさが嬉しかったものの、中学生になると部屋の隅々までフラットに照らす、白々とした光が何とも馴染めなくなってきた。賃貸の狭いアパート住まいだったから収納スペースもそんなに無く、畳やタンスの上に雑然とムキ出しで積んであったガラクタが、蛍光灯を点けると自分達が主役のように何とも「禍々(まがまがしく」目に飛び込んでくる。それが嫌で部屋の明かりを消し、机のスタンドだけで勉強やプラモデル作りをした。時代の流れを変えることは出来ないが、それでも一昔前の白熱電球の光が織りなす陰影が懐かしかった。

 

その頃になると古雅楽館は《理科実験Ⅱ》でも書いた、重度の「中二病」を患(わずらっていたから、街中の本屋さんや中学校の図書室で欧米の住宅を紹介した雑誌を繰り返し眺めては、我が家の空想「間取り図」を大学ノートに何枚も描いていた。雑誌に掲載された内装写真や解説を真似てノートの余白には「居間は天井に電灯を付けないで壁に吊るす。椅子の両脇に電気スタンド2台」とメモした記憶がある。考えてみれば何ともませたガキだった。古雅楽館の性格はかなり「しつこい」兼「気長」なところがあり、こうと決めたプランはいつか実現出来るのを夢見ながら、何十年でも心を持ちこたえることが出来る。それが進学や就職に結びつけば大いに結構なのだが、全く違う世界でしか発揮できなかったのは振り返ってみれば何とも悲しい。まあ、本人はさほど後悔はしておりませんが・・・。

 

 

 

【写真上2枚】毎度おなじみのダイニングテーブル、夕食前の風景。(チビッ子がいない)休日の黄昏時(たそがれどき)にはキャンドルを灯し、暗くなるにつれワークランプで明るさを補う。今夜の酒はウオッカで行く。ロシアの大衆的なブランド『ルースカヤ』プレミアム版、『バリョータ』オンザロック。ついでに『インセンス』にもお出ましを・・・。

 

今回のテーマもその例で、積年の思いを晴らす実行計画は社会人になり立ての頃から現在に至るまで綿々と続いている。コトの始まりはオヤジが家を建てた時である。社会人になった当初は勤務地が仙台市内だったので、家族と一緒に住んでいたアパートから通勤していたが、しばらくして遂に家を新築することになった。ツテを頼って紹介してもらった工務店の「注文住宅」なので、自分の部屋だけは図々しく内装から照明に至るまで、古雅楽館がパースを何枚か画いて希望を伝えた。先に書いたように(↑)中学時代から学校の図書館以外、本屋をハシゴして「新建築社」や「彰国社10」の建築雑誌を立ち読みしていたし、乗り物や建築のイラストを画くも趣味のひとつだったから、いよいよ夢が実現すると決まった時はチカラも入ろうというものだ。

 

 

【写真】スピードライマーカーは当時、一本300円だったから今だと700円超。色数を揃えるだけでも大変で、プロのデザイナーなら兎も角、アマチュアがふんだんに使用するのには費用対効果を考えると、やはりためらわざるを得なかった。古雅楽館にとっては道楽の世界である。

 

そう言えば、『イラストボード11』へ『スピードライマーカー12』で描いたパースを渡した時、工務店の社長が唖然(あぜんとした顔をしていたのを思い出した。たかだか個人(小)住宅を建てるのに、建築事務所がやるような、それも素人が描いたイラストを見るのは、初めてのことだったらしい。このサプライズはかなり功を奏して、「出来るだけのことはやってみましょう」と快諾(かいだくしてくれた。そうは言っても「マイル―ム」を完全に実現させるのは予算の兼ね合いもあり、100%理想通りとまではいかなかったが、それなりのインテリアを作り出すことが出来たのは、本当に嬉しかった。

 

照明はダウンライトが天井の四隅と、藤崎で買った壁際のソファーベッド上にペンダントライトが一つ。全部点灯しても仄暗(ほのぐらい空間で、明るさが足りない時はフロアスタンドやテーブルライトで補う間接照明重視のスタイルだった。長年の恨みから蛍光灯はナシ。造り付けの本棚やガラス戸棚など実験的な部分もあったが、実際に住んでみてインテリアの「ノウハウ」は十分に勉強させてもらった。その経験と反省はそれから20数年後リノベーションの際、十分反映されることになる。

 

《この項「不定期に」続く》

 

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1.1950年(昭和25年)6月から1953年(昭和28年)7月にかけ、朝鮮半島で発生した国際紛争。「終戦」ではなく「休戦」状態なので「平和条約」は締結されておらず、朝鮮半島をめぐる緊張状態が今でも続いているのはご承知の通り。現在は『朝鮮戦争』の呼び方が主流かもしれないが、古雅楽館世代以上はこちらの名称がポピュラー。

 

2.戦後間もない生まれの方なら、きっと習ったであろう『夜汽車』。昭和22年文部省編纂「小学校4年音楽教科書」に初掲載された。この時、同じく「小4」で選定された唱歌は『かえるの合唱』、『しょうじょうじのたぬきばやし』、『村のかじや』等だが、ご存知ですか?なお、幼い古雅楽館が夜な夜な汽笛を聞いていた『夜汽車』を牽引していたのは、タンク式蒸気機関車の傑作C-11だったが、それ以上の説明はくどくなるので省略。

 

3.1954年(昭和29年)12月から1957年(昭和32年)6月までの好景気により、日本経済は戦前の最高水準を上回るまでに回復した。有史(最初の天皇である神武天皇)以来の好景気であったことから、この名がついた。発端は上記『朝鮮戦争』による米軍兵器の修理や物資支援を日本が大々的に請け負ったこと(俗称『朝鮮特需』)で、相次ぐ輸出の拡大、物価安定、金融緩和等が重なって出現した。

 

4.「さんしゅのしんき(しんぎ・じんぎ)」。歴代天皇に伝わる『三種の神器』になぞらえて、戦後日本の豊かさ・憧れの象徴として喧伝(けんでんされた(主に)家電製品を指す。この時期(1950年代後半)のそれは「白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫。1965年(昭和40年)頃には「カラーテレビ・クーラー・自動車」に進化。今は生活や趣味の分野で優れた製品3種類に名付ける例が多いものの、個人的嗜好が強いのと「コトバ」そのものが古めかしく、若い方には通用しない(と思う)。

 

5.ある事象がその分野に新時代を開くほど意義をもっている状況。本文を補完すれば1956年の「経済白書」の序文で「もはや戦後ではない」と結び、一躍流行語となった。この時期を挟んで日本は『朝鮮特需』のラッキーな「外部依存」から、苦痛を伴う近代化の道を進み、産業構造の転換に成功する。

 

6.それまで使っていた木製ラジオは幼児期の事とて、流石にメーカーまでは覚えていない。ただ新型に買い替えた時、裏蓋をはがしてみたら、大型の真空管と真空管シールドケースが見えたので、多分終戦後に販売された『国民型ラジオ』であろう。1953年頃から真空管は小型高性能の『ミニチュア管(=mt管)』が普及し始め、1956年以降は『ミニチュア管』が国内生産の主流を占めるようになる。併せてキャビネットも制作に手間のかかる木製から、大量生産が可能なプラスチック製に置き換わり、低価格化(1万円⇨5~6千円)が一層進んだ。因みに古雅楽館が石巻に移り住んだ頃、例えば1955年の小学校教員初任給は7,800円で、普及型『5球スーパー(ラジオ)』の平均価格が8,000円前後。「月賦(げっぷ(=ローン)」を組めば、平均的なサラリーマンにも手が入るまでになった。それでも現在に換算すると20万円位だから、結構なお値段ではある。

 

7.大判の筆記帳で、本来は大学生の講義筆記用に作られたのでこの名がある。1884年(明治17年)東京帝国大学(今の東大)前にあった「松屋」が売り出したものが最初と言われている。

 

8.パースペクティブ(= Perspective)の日本語略称。遠近法、または主に建築や公共施設・公園などの「完成予想図」。従来はマーカーやペン、アクリルなどの画材を使用して手書きかエアブラシで表現していたが、最近は3DCG(三次元コンピュータグラフィックス)に代わられつつある。

 

9.1925年(大正14年)創業の建築関係専門の出版社。同年創刊された月刊誌『新建築』は、90年以上の歴史を持つ建築業界のメディアとして中心的役割を果たしており、作品が掲載されることは建築家としてのステータスと言われている。

 

10.↑8と同じく、1932年(昭和7年)創業の建築分野専門の出版社で、単行本や建築関係辞典を発刊。古雅楽館が立ち読みしていた雑誌『建築文化』は現在休刊。

 

11.水彩紙やケント紙の裏に厚紙を貼り合わせた(マウント)したもの。一般のケント紙などより強靭(きょうじんで反りにくく、イラスト以外にも切断して模型製作など多目的に使える。これに描いた作品はそのままでも見栄えが良いので、プレゼンテーションにも最適。

 

12.米国「マジックマーカー社」のデザイン用カラーマーカー。日本では1969年に「いずみや(現:トゥー)」と合弁で「マジックマーカー・コーポレーション・オブ・ジャパン」が設立され、国内生産を始めた。その後、コピートナーを溶かさず色数を増やした『コピック』を販売。年を追うごとに改良・新色が加えられ、現在は『コピック』だけになり、『スピードライマーカー』は製造を中止している。1982年公開のカルトSF映画『ブレードランナー』で、リドリー・スコット(監督)より未来都市景観から小道具に至るまで一連の「コンセプトデザイン」を一任された、フューチャー・インダストリアル・デザインの教祖、『シド・ミード』が愛用するレンダリング用品しても有名だった。

 

 

 

【写真上】シド・ミードによる、『ブレードランナー』コンセプトデザインのひとつ『スピナー』。言わば「飛行自動車」で、ポリスカーとして(主人公)デッカードを警察署に呼び戻す際、街頭から垂直に離陸するシーンが印象的だった。

 

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【トップ写真】夏を彩る宿根草二つ。左は『モナルダ・パノラマ』。丈夫で育てやすく、欧米では『ベルガモット』の名前でハーブとして利用される。右は昨年も紹介した『ヘメロカリス』(二種類とも)。こちらも大変丈夫な宿根草で、アブラムシさえ気を付ければ放任状態でもよく開花する。英名『Dayliy(デイリリー)』の名が示すように『一日花』なのが残念。

 

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