【古雅楽館】 恐山

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今回二泊三日の青森帰省では中日(なかび)に恐山へ参詣した。現役時代、入社後間もなく添乗で恐山へ一回だけ行ったきりなので下北半島は「超」久しぶりである。あれは「恐山大祭」の時だったから7月下旬で、宿坊に泊まり翌日は『仏ヶ浦』を観光した記憶があるものの、前後の日程がはっきりしない。40年以上も前のことだから、今回は初めての訪問と同じである。

 

青森からむつ市までは車で2時間弱、「マサカリの柄」にあたる道中はぽつぽつと人家が散在する程度で、地図を見ると海岸沿いの快適なドライブコースを想像するが、実際は原野よりも森林が多く変哲のない景色が続く。運転するカミさんは「景色のいいところがさっぱりない」とボヤいていたが、カーナビのない我が車で代わりにナビゲーター役を務める古雅楽館にとっては「海岸砂丘」を登り下りする度に移り変わってゆく植生が興味深かった。

野辺地町からしばらくは太平洋側から吹く『やませ』の影響で冷たい霧雨が降り、横浜町に近づくと雲が切れて日が挿し始める気象の変化も「なるほど」と一人納得。

 

むつ市内から恐山へは20分ちょっと。ほぼ海抜1~2メートルから200メートル以上に駆け上るヒルクライムで、木々に覆われた曲がりくねった山道を走ることしばし、忽然(こつぜん)と『宇曽利湖(うそりこ)』が現れる。「ウソリ」とはアイヌ語で「ウショロ=窪地」を意味し、恐山カルデラを指す。この語源から古くは「ウソリヤマ」と呼ばれていたのが訛(なま)って「オソレヤマ」に転化し、漢字を当てて如何にも意味ありげな『恐山』になった。

 

カルデラは八つの外輪山に囲まれているが、『恐山』という単独峰はない。あくまで「山系」の総称である。有史以来噴火しておらず、カルデラは湖岸まで鬱蒼(うっそう)とした原生林が迫っているが、北岸だけは火山ガスや水蒸気、温泉が噴出する裸地で『地獄』と呼ばれている。

 

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【写真上左】総門をくぐると参道両側に常夜燈が並び、正面奥に「山門(別名 仁王門)」がそびえる。【写真上右】「山門」を通って突き当りが本尊の「延命地蔵菩薩」を戴く「地蔵殿」。左手が「地獄巡り」の入口。

 

日本三大霊場のひとつに数えられる恐山は言い伝えでは862年(貞観4年)最澄の弟子『慈覚大師』によって開山された。一時衰亡したが1522年(大永2年)南部氏から援助を受けた曹洞宗の修験僧『聚覚(じゅかく)』が『円通寺』(本坊)を創建、別院の『恐山菩提寺(おそれさんぼだいじ』を建てて再興を遂げ、明治初期には極短期間だけ『斗南藩』の藩庁が置かれていた。

 

御本尊は『延命地蔵菩提』、いわゆる「お地蔵様」である。御本尊を安置している「地蔵堂」は開山以来、地蔵信仰に由来する死者への供養の場(言い換えると死者の魂が集まる所)として多くの人々から敬われてきた。特に東北では今でも子を亡くした父母は必ず訪れる(なければならない)地として根強い信仰を集めている。恐山と言えば『イタコ』が有名だが常時居るわけではなく、大祭と秋詣りの時だけ青森や八戸あたりから出張してきて『イタコマチ10』をつくり、『イタコの口寄せ11』を行う。

ただ、興を削ぐようだが『恐山菩提寺』自体は『イタコ』と何ら関係がなく『イタコマチ』の場所を提供しているだけであり、『イタコの口寄せ』も行われるようになったのは第二次世界大戦後のことで、それ程古い訳ではない。 また冬季は積雪のため閉山となり、参詣出来るのは5月から11月上中旬までである。

 

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【写真上左】地蔵殿裏手の山から菩提寺境内を見る。奥が「宇曽利湖」、右側が「地獄」。この写真撮影箇所が一番霊界に近いそうだ。【写真上右】「大平和観音・永代無縁碑」。至る所に「ケアン」とお地蔵様が・・・。

 

奥にある『地蔵殿』東側には宿坊が並び、西側の『地獄』は「亜硫酸ガス12」で腐蝕されて白茶けた奇岩が乱立する岩石地帯。遊歩道の地獄巡り案内標識に沿って歩いて行くと『賽の河原(さいのかわら)13』に相応しく、あちこちで小石を積み上げたケアン14や様々な姿の「地蔵菩薩像」に出合い、(仕上げに)至る所、地面に突き刺した原色の風車15がからからと廻り、硫黄の臭いとカラスの啼き声が更に輪をかけて舞台効果満点だ。

 

小学校に入る前、母方のおばあさんから口伝えに教えてもらって何故か今でも覚えている『賽の河原地蔵和讃16』の一部を詠(うた)いながら歩くと、カミさんが「何うなっているの?」と聞く。物語を説明して再度詠うと、「ひえ~~ヤメテ 怖い~~」とさっさと先へ逃げて行ってしまった。昔は乳幼児の死亡率は現在よりはるかに高く、古雅楽館含めカミさんの家系でも幼くして亡くなったご先祖様が少なからずいらっしゃる。プライベートな話なのでこれ以上は書かないが、参詣の目的はここで『御詠歌(ごえいか)17』を詠うことだったのだ。ああ、それなのに・・・。

 

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【写真上左】「延命地蔵尊」。「和讃」の文末にある、「銀杖法衣(ぎんじょうほうえ)に憑(よ)りついて 助け給へと願うなり <中略>ただ願はくば地蔵尊 迷ひを導き給へかし」 そのもの。 「合掌」。【写真上右】四年前の大祭時に落成した極楽浜に建つ「東日本大震災慰霊塔」。こちらも地蔵菩薩で背面には大小取り混ぜ,数十の手形が彫ってある。

 

やがて『宇曽利湖』に近づくにつれ、景色は砂利と砂が続く起伏の緩やかな平地に変わる。 湖岸は『地獄』とは対照的な白い砂浜でこちらは『極楽浜(ごくらくはま)』といい、静謐(せいひつ)とした湖水は神秘的を通り越して不気味ですらある。私達が訪れた日は曇天の陰鬱(いんうつ)な雰囲気の上に参拝客もまばらで人語も殆ど聞こえず、湖岸に佇(たたず)むと正(まさ)しく『来世』(異界)への入り口のように思われて仕方なかった。湖底から「おいで、おいで」と呼んでいるようで、入水(じゅすい)への誘惑とはこんなものだろうかと一瞬頭の中をよぎったことである(!!!)。

 

【写真下】「宇曽利湖」近傍。地獄のあちらこちらで湧き出した強酸性の熱水が小川をつくり、湖に注ぐ。このため湖には強酸性の水質に適応した特殊な「ウグイ」の一種しか生息していない。手前に見える数々の「ケアン」に注意。

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1. 梅雨明け後、北海道から関東太平洋沿岸に吹き付ける北東~東風。「オホーツク海高気圧」からの冷涼・多湿な風で低温をもたらし、冷害の原因となる。大規模な冷害は「凶作」となり、歴史上でも『やませ』が要因の一つである大飢饉をもたらしている。

2.火山地形の一つ。大規模な噴火やマグマの移動により、空洞化した地下の「マグマ溜まり」に地表が陥没した窪地が代表的な例。世界的に見ても日本で一番有名なカルデラは、この前噴火した阿蘇山である。

3.釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山 の八峰。

4.他は滋賀県の「比叡山」、和歌山県の「高野山」。

5.『空海』と共に平安時代を代表する名僧。『遣唐使』として中国に渡り、仏教を学び帰国後比叡山延暦寺を建てて『天台宗』の開祖となった。現存する数少ない「書」は全て国宝に指定されている。

6.正式には『円仁』。第三代「延暦寺の貫主」。最後の『遣唐使』として9年半に及ぶ「唐」での修業は行き帰りの船旅も含め、苦労の連続であったが、その間記した日本最初の紀行文『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』は9世紀「晩唐」の貴重な資料として高く評価されている。帰国後『慈覚大師円仁』が開山・再興した寺は東国を中心に500以上あるとされ、真偽(しんぎ)の程は定かでないものの、松島『瑞巌寺』、山形『立石寺』もその一つとされる。

7.戊辰戦争で敗れ、領地没収となった会津藩が再興を許され二戸・三戸・北の各郡を合わせて立藩し、明治3年1万7千人余りの会津藩士が移住し(させられ)た。会津23万石からわずか3万石に落とされ、更に北国の不毛の地で実際は1万石にも満たず、生活は困窮を極めた。「廃藩置県」で「弘前県」に併合されるのはわずか一年後であり、多くの藩士が離散、この地の残ったのは50戸に過ぎなかったという。

8.理由は↓13参照。

9.生まれながらにして目が不自由であったり、幼少期に視力を失った女性が修行により霊能力を得た「霊媒師」のことだが、実質的には「カウンセラー」的な役割も大きく、相談相手の心情を読み取る修練は必須であった。青森だけでなく全国に存在し、「アガタ」、「クラオロシ」、「ミコ」、「ワカ」など地方毎に呼び名が異なる。カミさんのお母さんは生前、「津軽イタコ」の「カミサマ」によく通って祈禱(きとう)をお願いしていた。

10.イタコがテントを張って軒をつらねている場所。

11.死者や祖先の霊と交感する際の仲介者として、霊の代わりにコトバを伝えること。

12.「二酸化硫黄(SO)」のことで空中の水分や降雨によって、(希)硫酸(HSO)に変化し腐食が起こり、亜硫酸ガスに付随する『塩化水素』や『弗化水素』が更に腐食の進行を早める。噴気孔近くの「お地蔵様」に供えられた賽銭は真っ黒に変色していた。

13.『此岸(しがん)』<この世>と『彼岸(ひがん)』<あの世>を分ける境目にある「三途の川(さんずのかわ)」のほとりが『賽の河原』。親よりも先に亡くなった幼子(おさなご)は「三途の川」を渡って成仏出来ず、「父恋し 母恋し」と泣きながら血まみれの手で小石を積み上げてケアンの「卒塔婆(そとば)」を作ろうとする。が、絶えず「鬼」がやって来て「こんなゆがんだ塔を作っても功徳にならぬ」と言って金棒で塔を崩してしまう。子供たちは泣きじゃくって、また一からやり直す。然し永遠に完成しない。むごい話である。

(ありがたいことに)最終的に子供達は「地蔵菩薩」によって救済される。なので、ケアンの傍らには必ずお地蔵様がいらっしゃるのだ。

14.人によって積み上げられた石の塔で別名『ケルン』とも。

15.恐山でカザグルマは『輪廻転生(りんねてんせい)』の象徴とされる。亡くなった子が霊界で魂が浄化され、再び「生」を受けることを願い、参拝客は子の数だけ(或いはそれ以上)売店で購入し入山するようだ。   

16.17.「さいのかわら じぞうわさん」  ↑13の顛末(てんまつ)を五・七調の詩文で誰にも分かりやすい「歌」にしたもの。仏様や経典を褒め称える『賛歌』の一つで、『御詠歌(ごえいか)』ともいう。「和讃」の傑作といわれ、詩文が微妙に異なったバリエーションが多数存在するが大筋は変わらず、今でも長く詠い継がれている。ハイライトは・・・

 

<前略>

 

母の乳房を放れては  賽の河原に集まりて  

昼の三時の間には  大石運びて塚をつく

夜の三時の間には  小石拾いて塔を積む

一つ積んでは父の為  二つ積んでは母の為  三つ積んでは西を向き

 

<後略>

 

本文にあるように古雅楽館はこの辺は暗唱して詠えます。

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【トップ写真】恐山菩提寺「山門」脇のお地蔵様。様々な色、形の風車がからから廻る。

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